国語力を向上させる実践的な指導方法として、ブッククラブ・メソッドの活用ゼミを行いました。

以下は、その指導方法において、どのようなことに留意するかを

有元秀文(2011)『ブッククラブ・メソッドで国語力が驚くほど伸びる!』合同出版を参照し論じたサマリーです。

 

本書の主張を突き詰めれば、教育は答えを与えるのではなく、この世を歩む力を身に着けるための答えに向かう力を育てよということであると考える。オープンエンドの問いは正に現代社会の答えのない課題そのものである。過去や先達から学ぶことは依然多いが、時代の変化や拡大し続ける文明社会という観念が限界を迎えつつある現代社会において、答えのない問題に自分なりの解釈で挑む力は、答えがある問題に正確な答えを返す力とは比べようもないほど重要なものである。教育の初期段階においては、自身の考える力を伸ばし、それを表現する力を育てることは何をおいても重要視されるべきで、それを国語という教科で行うことは必須であると言える。

本書の趣旨を踏まえたうえで、中学受験の現場を見ると一つ興味深い事実が見えてくる。実は開成中学などの最難関校の国語の試験問題の出題に選択式の問題や本文に正解を見つけるタイプの抜き出し問題が存在しないか、あってもごくわずかだということである。出題の傾向として、本文の登場人物の気持ちを解釈し、自分で答えを書き出す記述式の問題が多数を占める。一方で、該当箇所を見つけ出す問題や知識を問う問題、筆者の考えを選び取る問題は、合格偏差値が低い学校ほど出題数が増える傾向にある。東大などに合格者を多く輩出する学校ほど、答えを見つけてくる、あるいは知っている知識量だけを問う問題を解ける子を望んでいないということがこの事実から浮かび上がってくる。最近中学受験で大きく成果を出しているサピックスでは対策として討論式授業を取り入れている。早稲田アカデミーや四谷大塚などの大手進学塾と進学実績で大きな差が生まれているのはこの一点に尽きるのではないか。一般に中学受験の集団授業を主とする塾では生徒に授業を授けている。生徒に正解を教え授ける方式では分かった気になるだけで活かせないから、多くの問題演習でパターンを暗記させる。これが中学受験で行われるツメコミ教育の実態である。もちろんツメコミ教育で合格をする子もいるだろうが、ツメコミ教育だから合格できたという子ははたしてどれだけいるのであろうか。

 

本書の主張する、指導における7つの問いに着目し、それぞれの問いが何を目的としているのかを考えたい。

背景の問いについては議論の余地を挟まない。バックボーンとなる基礎知識が無ければ没入感や共感を得ることは難しく、記述されている漢字が読めないのであればそれを教えなければ理解の段階まで進めることはできない。赤子が言葉を発するのはそれを聞いたという経験があるからこそ可能であることと同じである。

次の理解の問いについては現行の中学受験などでも多く問われる能力となる。教室の生徒が同じ共通認識をもって授業に取り組むことは重要であるから、赤を青と理解されては困難である。書き出しなどをして大事な事柄や登場人物などを共通認識のもとに洗い出すプロセスとなる。

解釈の問いについては、中学受験の最難関校で中心となる問題になる。文中の手がかりから、推論を立てていくことで登場人物の真意をつかむ問いを投げかけ、受験者の人生経験や考え方を図っているのであろう。こういう時にこういう感情になってこう行動するのは常識だという指導をしている講師を見て閉口した経験がある。最難関と言われる開成がこの水準の出題が最高難度であるため、これで良いと考えているのかもしれないが、その常識を知っていますか、という問いを中学の教師が問うていると本気で考えているのか疑ってしまうほどの指導であり、子どもの経験を甘く見ていると言わざるを得ない。子どもの解釈を聞き取り、迷走するようであれば整理してこう説明すればよりわかりやすいという手本としての指導はあってしかるべきであるが、答えとしての解釈を与えることは子どもにとって益とはならないことは本書の主張するところでもあり、子どもの意見表明する気持ちを折ってしまう。

予測の問いは、トライアンドエラーをすることで自分の考え方を修正し、多くの人が納得できる筋道を知る最良の機会になると言える。自分の予測したことの正誤は誰もが気になることだ。選択問題の回答をすぐさま解答を見て確認する様子は模試などではよく見られる光景であるが、明確な〇と×で分けられたものではない予測の正誤はどうしてそうなってしまったのかを振り返る意欲が湧く。なぜなら、回答が単なる逆ではないからである。逆でないのならどこを直せばより精度の高い予測が可能になるのかを考え始め、アンテナを張り巡らせるきっかけになる。

評価の問いについては自身の価値観の表明である。長らく日本の教育の現場で蔑ろにされてきたものがここにあると考える。絶対的な正解、進んだ研究の下ではそれに学び従うことが日本における教育現場では行われてきた。教師の言うことに本当にそうであろうかと疑問を持ち、それを表明することは悪とされている。先達の言うことやこう書いてあるからと唯々諾々従うことを是とする教育に対しての批判でもある。

創造の問いは未来の可能性である。提示された現状に対して、未来への道筋を組み立てることは次の問いにつながる個性の成長を促す大切なプロセスとなる。

個人の問いは個性の問いである。大きな課題や劇的な展開を自分自身の問題として捉えた時に、自分なりの考えを表明することは日本の教育でこれまで行われていなかったという。海外に倣え、目上の者の指示に従えという年功序列社会では不要であったのであろう。答えのないとされる問題について自分なりの解釈で挑むことが求められる時代において、この力を育てることは、喫緊の課題であるといえる。

 

塾という形態の指導を行う上で、以上の7点を踏まえたうえで、どのように受験指導と現状求められる学力の向上という課題に向き合うかについて、解釈の問いを発展させ、出題者の意図を解釈する指導を行いたい。なぜここに傍線が引いてあるのかを解釈することは、自分が出題者ならここに線を引いてこういった問題を出せばより良い設問になるのにという、クリティカルな思考を育むことも可能であり、より高い次元で国語の問題に対応する力が身につくと考える。国語の問題を解く自分を登場人物とし、文章を書いた筆者、問題の作成者を対比させるといった地平まで他者の意図をくみ取る思考力まで得ることができれば、結果として、書いてある部分を抜き出すといった従来型の入試問題であっても苦にならない国語力が得られるであろう。